ある認知症患者さんの言葉
昨夏から、ひげを生やし始めた。
還暦を過ぎたら、私の髭は真っ白になった。頭髪はさほどでもないが、口ひげと顎ひげは、ずいぶん白い。
その白さを楽しんでいる。
30歳代にも生やしたことがあるが、すぐに止めてしまった。
ひげを蓄えて患者さんと接することができるほどの人格が備わってないと、自虐的になってしまったから。
今は、どうか?
それはともかくとして、ある日、ひげを通して、思わぬ出来事があった。
ひどい認知症の女性が、ひげの私を見て、「野村先生!」って初めて私を名前で呼んでくれたのだ。
それまで、半年も訪問診療を繰り返していたが、私の名前はおろか、私の存在さえ記憶にないはずなのに。
理由は明らかだった。
彼女にしてみれば、「ひげを生やした医者」とは、彼女がまだ若い頃に接した私の父だったからだ。
認知症のひとは、新しいことはすぐに忘れるが、昔のことは覚えている。
私は、齢を重ねるごとに、「父に似てきた」とよく言われるようになった。
最近は、風貌だけでなく、仕草や思考回路まで似てきたように思う。
そのうえ、ひげを生やし始めたら、皆さんから「ますます、そっくりだ」と感想をもらうようになった。
野村医院を継承して、父母の偉大さに畏敬の念を禁じ得ない日はない。
彼らが、毎日毎日医療をちゃんとしていたことを、患者さんが、ことあるごとに、今日の私に教えてくださる。
認知症の彼女が「野村先生!」って呼んでくれたことも、まさにその表れだと思う。
私にとって、それは何物にも代えられない貴重なもの。
彼らが続けていた医療の本質を忘れず継承し、自分の医療も展開する。それが使命だ。
この日は、ひげがそれを思い出させてくれたのだった。
ひげの効能
ひげを生やすことで、初めて気づく効能がある。
さまざまなことがある。
また別の日に、それはお話ししましょう。
今日は、ともかく、「野村先生!」って言ってくれた彼女のことを紹介しておきます。
それ以来、彼女を訪問診療する日が、ますます楽しくなったことは言うまでもありません。